★なんくるナインジャー★

気まぐれ冒険ナイン。  カルペ・ディエム  Carpe diem

September 2017

    今日は英語、一回休んで・・・

先日の面白い出来事を。

先日、突然、娘が本を書く!! と言い出しまして・・・笑

なにやらノートに書き始めたんですね。 30分くらい書いていたでしょうか。

なんだか予想以上に集中して、長く時間がかかっているので、一旦中断させて、お風呂へ。

でもお風呂に入っている途中にも、

「あ、今、書きたい言葉が浮かんできた。」

と裸で飛び出し、執筆する娘。


何を書いているの?といっても、できてからのお楽しみ、ということで・・・。


で、しばらく待った末に・・・

また未完成だけど、とりあえず今日はここまで。という書いた本を見せてもらったんです。

大好きなウサギの登場する絵本かな~なんて予想はしてたんですが。




タイトルをみて(゚д゚)!びっくり。

「地球を助けて、日本をもとどおりにしよう」(実際はすべてひらがなですが)
   ~地球の気持ちも考えてね~(地球君の吹出し)




な、なんか、規模 で、でかい!!(@ ̄□ ̄@;)!!

ちょっとした選挙ポスターの標語みたいだし。

で、ノート6ページにも渡ってぎっしり書いてある文字、文字!!

そして、内容もちょっといい話(?)になっていたので、

一部引用してみます。
(日本語を漢字に直しましたが、それ以外はそのままです)



動物たちを殺さないで。動物たちはみんなの宝だよ。かわいそうなことしないで。命は一つしかないから。

大切な地球を助けて。そうしないと、地球は大変になっちゃうよ。今のうちに助けてよ、早く。

地球は泣いてるよ。

水も一つ一つ大切なものだよ。無駄使いやめよう。


まだわかってないみたいだなー。
本当に本当のことを言ってるのに。

みんながいなくちゃダメなんだ。
家族やお母さんもお父さんも煙草を吸っている人も みんな大切な宝ものを
一人一人の力をみせればいいんだ。
失敗してもあきらめなければすぐ地球を助けられるよ。
そうすることを思えば優しい人になれるんだよ。  (引用終わり)


ちなみに私は 水を大切にとか、動物が・・・とか教訓めいたことを娘に言ったことがないのですが、
(もしかしたら学校で?)
面白いですね。

娘曰く、 勝手に言葉が下りてきたんだよ (ごくごく普通な感じで) と。


はい、神 降臨・・・笑


でも、7歳の子でも、こうして 地球を大切に って思う気持ちが湧いてくるのだから、

大人も、みな、世界中、仲良くしてほしいと思いますけどね・・・。


おまけ 今日も素敵なケツメイシの歌を。


手紙~あれから




10年前の僕たちへ 今を伝えよう

無我夢中で走り続けた10年
今ならわかるから君に言うぜ
その努力ならば裏切らない
近道はないからやるしかない
その経験は無駄じゃない どれも


大丈夫!そのままでいいぞ
進んでいこう 目の前の道を!!!




10年前の自分にあてた手紙ということで歌詞が書かれているんですよね。



10年前の自分は・・・


まさか 

教師を二回も辞めることになるとは・・・

まさか、

人生を変える素晴らしい出会いがあるとは・・・


まさか・・・、まさか・・・



あの当時の自分には全く、想像できなかった

まさか・・・の連続の10年でした。 (もちろん、超試練的なまさか、もありましたが)


でも、確実に、10年前の自分より、今のほうが人間として成長してるよ と、断言できますね。
自分、頑張ったな~ 笑

きっと、今の私の10年後にいる 10年後の私も、10年後を振り返ったときに、同じことを言っていると思いますね。



そして、ちょうどいまケツメイシのCDを通して聴こえてきた神からのメッセージをしめの言葉にして終わります。笑

この広い広い世の中で
出会い別れを繰り返して
成長している自分に出会う それこそが人間交差点

僕が歩く この道は 君の道とぶつかり合う
偶然と運命がそうさせる
そこはまさに人間交差点

この世に数ある出会いの中で 時は流れて 別れ離れ
また別の道が重なっていく

出会いに感謝できる生き方

出会いに感謝される生き方

さあ楽しんで次の交差点
いつか君との人間交差点」 

     
ケツメイシ人間交差点より





日本人の9割に英語はいらない (祥伝社黄金文庫)
日本人の9割に英語はいらない (祥伝社黄金文庫) [文庫]
成毛眞
祥伝社
2013-06-12







今日も前回に引き続き、この本を引用、まとめていきます。本当に読みやすい文体で、わかりやすく、大変面白かったです。


本当にぜひ、皆さんに読んでみてほしいです。

私の子供にももう少し大きくなったら読ませます。笑
まあ、概要はすでに簡単に娘に話をし、世の中の流れに常に疑問をもとう ということになりました。

娘には読ませたい本がいっぱいあるので、私としてはとにかく、英語力より、国語の読解力を早く身につけさせたいです。



では早速。引用まとめ開始


日本人は読書量が世界でもっとも少ない。

OECDのPISA調査から

今から10年前で 毎日30分以上読書する人は、

日本は27.1パーセント

フィンランド48.6パーセント

今の世代 親世代も読書をしない。

読書は、真の教養である。

自分が生まれ育った国の思想や哲学、感性などをはぐくむために必要なものである。


今は無個性で 品のない人間ばかりになっている。


勉強といえば、日本は大学に入るための勉強。

単位を取るための勉強。

これでは思考を磨くことはできない

社会に出て強いのは深い思考力を持った人間である。


教育は国の根底にかかわるもの。

日本は静かに骨抜きにされている。

アメリカは イラクに侵略した際、

日本のようにすればいいと言い切っていた。


その言葉が意味することは、つまり


アメリカにとって 日本は侵略の成功例の一つ


とみなされていることである。


アメリカは日本をおとなしくさせて飼い殺しにして自分たちの財布代わりに日本を利用している。


無自覚のまま英語を教育するのは、 侵略を許すのと大差ない。


第二言語は考える力がしっかりしていなければ習得できない。


セミリンガル という言葉がある。

これは、
どの言語もまともに話せない人のことである。

言語は人格形成の骨格となるもの。

人は言葉によって思考するのだからその言葉がおぼつかないと、思考まで揺らいでしまうのである。


受験英語とは
暗記力を試すものである。

自分で何かを生み出したり、考えたりするよりも暗記のほうが数倍楽である。
受験勉強はいかに効率よく、覚えて処理するかというトレーニングをする勉強である。


物事を楽しむ余裕はなくなりすべてがタスクになる。


受験とは 常に人を踏み台にしてのしあがる環境であり、
自分さえよければそれでいいという

人を見下すような人達が上に立つことになる。



今の人の多くは受験勉強はできても、何もないところから一から構築できない。



そもそもインターナショナルスクールをでて、成功した人はいない。

日本にいるのに自国の文化をしらない子供を育てることの恐ろしさ。


日本人の9割に英語はいらない。 

日本の教育より海外のほうが優れた教育という幻想がある。

アメリカの貧困率  格差、失業率、銃や麻薬などの社会問題をみてみればそれが幻想であることがわかる。

もはや、アメリカはあこがれる国ではなくなっている。

 
親の身勝手な欲望に振り回される子供がかわいそう。

目的さえあれば英語は覚えるのである。

とにかく、何のために勉強するかという目的が大切。

英語ができることがすばらしいのではない。

何を読むのか、何を話すのかが価値を生む。



英会話を習うより本を読め。

自分の世界感を広げたいなら本を

あらゆる種類の本をよむといいい。

(終わり)

本当に納得です。

私は社会人になるまで、というか、教員採用試験も含めて、受験勉強を本当にただひたすらやってきました。


テストの傾向を分析して、いかに効率よく、問題を解くか。
そればっかりでした。

受験勉強は暗記。その通りだと思います。

常に私にとって、勉強というのは、その先にある目標をクリアするための手段であって、目的でなかったし、


まさに、タスクでした。

勉強の楽しさを、学ぶことの楽しさに気が付いたのは、結局、教師を辞めて、図書館でいろいろな本を読み漁り始めた時からですね。

新しいことを知る、わかる、そのように人から強要されたものでなく、自分のために学ぶことって本当に楽しくて、
その喜びを知ってから、人生がまるっきり変わったと思います。

考え方も、モノの見方も。

今回だって、一つの英語の本をきっかけにして、いろいろなところに波及して、新しいものの見方を獲得しました。

本当に面白い。

英語=かっこいい という視点だけでなく

英語=植民地化 家畜化 という視点が新たに加われば、 また、英語に対する意識は変わります。

さらに、今後は、英語から広がって、アメリカと日本の歴史やフランス語、多言語、多文化にまで意識が広がっていく可能性もあります。(これから少しずつ勉強します)

そうすると、行き着く先は、 海外旅行という名の、現地視察でしょうかね 笑

色々な視野を獲得した後に行く海外旅行は、きっととても面白いものになるだろうし、有意義な旅になると思います。



「たった一つの点から、いろいろなことへ波紋が広がっていく、それこそが、真の学問である。」 BY 七色



・・・ということで、かっこいい決め台詞で終わりにします。笑

 4へ続く(え~?まだ続くのかよ~っ  ええ、まだまだ続きます 笑)

  先日、英語に関して、世の中の流れとは違う見方の素晴らしい本を紹介しました。
あの記事は、3か月以上前に書きかけてあったものなのですが、あの記事を更新したその日に行った図書館で、またまた 素晴らしい本に出合いました。

その名も 日本人の9割に英語はいらない ~英語業界のカモになるな!~ 成毛眞 という本です。

かなり私もこの本に賛同する部分がありましたし、これまた大変視野が広がる本でしたので、まとめておきます。

ぜひ、一読してみてください。素晴らしい本だと思いました。

先日に何気なく手に取った一冊の英語批判の本をはじめとして、次々とそれに関連する素晴らしい本たちにであったので、今回は、 英語シリーズとして、(シリーズ5ぐらいまで?)今後しばらくそのような話題でアップしていきたいと思います。



引用まとめ

英語は、とにかく暗記するしかない科目である。
英語を学んだからと言って欧米の文化や歴史に詳しくなるわけではない。

英語だけを覚えるのは、意味も分からずにお経を唱えるのと変わりない。

英語を勉強することは、普段使わないものを淡々といかにもくもくと続けられるかを試されているのではないか。

英語の単語や英文を暗記するのも仕事でルーティングワークをこなすのと根本的には同じ。求められるのはいかに効率よく早く暗記をこなすか、つまり、何かを生み出すクリエイティブな作業ではない。

単調な作業を黙ってこなすのは組織の命令に服従的であり、盲目的な人である。

組織にとっては何も文句も言わずに従属してくれるありがたい存在である。

ただし、これからの時代は想像力や瞬発力にたけ、人の意見に惑わされない自立した人が必要であろう。

企業や学校の言いなりになってまじめに英語を勉強する必要はない。
何の必要もないのに懸命に英語を暗記する人は残念ながら頭がいいとは言えない。

何事にも疑問をもつという姿勢がない。

英語は何かを表現するための手段であって、英語を習得するということ自体が目的になってしまったら、薄っぺらい人間になってしまう。

そもそも何のために英語を勉強するのか。

英文科卒でも英語を生かして働いている人はほとんどいない。

日本で英語を本当に必要とする人は1割しかいない。9割はそこまで必死に英語をやる必要はない。

こんなことを書くと反論があるであろう。

これからのグルーバル化に逆行している。 

こんなことを言うから日本人はいつまでも英語ができない とか。



しかし、今まであなたが学んできた英語は人生において役立つ場面がたくさんあっただろうか。

たまに外人に道を聞かれて しどろもどろに答えて
あ~もっと英語を勉強しておけばよかったくらいではないか。

時たま海外に旅行の際に 英語がもっとできたらな~と思ったり するぐらいではないか。

しかも、日本人の海外旅行でさえも、通訳のツアーガイドがついていて、ほとんど英語ができなくても困らない。


日本に必要なのは、国民全員が英語をぺらぺらになることではない。
本当に必要としている1割の英語力を向上させることである。

英語のネイティブスピーカーが習得しにくい言語は、アラビア語、北京語、韓国語、日本語。
日本語はかなり難しい。



日本人は英語ができないからといって劣等感を持つ必要は一切ない。

むしろ、英語圏の人が習得しずらいほど、唯一の限度を使っているのだと誇りを持てばいい。

木漏れ日という言語も英単語にはない。
日本語は言葉だけで想像力をかきたてる素晴らしい言語である。



そもそも英語はどこで使うのか?

グローバル化が進んでも市民レベルで日本人が外国人と交流する機会が増えることなどない。

東京の人が北海道や九州の人と交流する機会すらほとんどないというのに。


なぜ、グローバル化=イギリス、アメリカの人と交流 という発想になるのかわからない。

それはごく一部の人の話。

グローバル化と騒いでいるが、イタリアやフランスなど、田舎に行ったら誰も英語など話さない。

英語 = グローバル化 と解釈している時点で英語圏の人たちに洗脳されている。

本当に英語が必要になったら、勉強すればいい。

英語は使わなくなるとすぐに忘れる。
語学だけを5年10年も学び続ける人などいないであろう。
語学教室に通ってぺらぺらになっても半年も使わなければ忘れてしまう。
そこまで、投資するほと、英語が必要な人が果たしてどれだけいるのか。

多くの人は英語が必要だと思い込まされているだけ。

フランス人は自分の言語を愛し、母国語を守る重要性を認識しているので、英語を嫌う。

フランスの元大統領がかつて言った。

「明日の世界が英語が唯一の言葉、すなわち 唯一の文化という前提の上に築かれるということは全くない」
もっともである。


英語を母国語としない人が易々と他国の言語を受け入れるのは想像以上に危険な行為。

言語を受け入れたら文化も入る。

日本はすでにアメリカの半植民地化しているのである。

これで、言語まで英語にそまってしまったら、完全に植民地である。

それがわかっているから、フランス人やヨーロッパの人はアメリカナイズされるのを警戒している。

日本も堂々と英語を拒否すればいい。

日本にいるときに英語で話しかけられて、仕方なく、日本英語で返してあげるくらいでいい。
答えられなくて罪悪感など抱く必要もない

だってここは日本なのだから、相手があわせるべきなのである。

フランス人は英語ができなくても堂々としている。

だって、フランス人なんだから、英語できなくて当然だろ?と。

日本人は他国の文化を無批判で受け入れてしまう姿勢を恥じるべき。



英会話産業のカモになってはいけない。

英語ができないと世界で生き残れないような錯覚を日々植え付けられている。

それもたいていは、英語が必要でない9割の人が起こしている。

英語が上達するには、英語圏の国に行くことである。

現地で使っている英語をまねるのが一番。

英会話スクールの外国人は確かに英語はペらぺらであろうが、教師としてプロではない。



日本で習った英文も現地では違う使われ方や、非常に失礼にあたってしまう場合もある。


例えば

I LOV YOU という言い回しは

あなたを大切に思っている という意味で多く使われていて

ただ 愛しているという恋愛の意味ではない。

恋愛の場だけでなく家族に対して多く使うのはそのような意味があるからである。


そもそも日本人の愛と西洋人の愛の概念が違う。
愛はもともとキリスト教から生じた概念である。

だから、日本で 愛しているという言葉に違和感を持つ人が多いのも仕方がないこと。


国際理解とはそのような文化の違いまでを学習することである。

しかし、当然、英会話教室でそこまで深い部分など教えてもらえない。

そのような部分こそが大切であるのに。



では、早く英語を始めることに何の意味があるのか?
早期教育は発音ばかり重視している。

日本人の英語ペラペラというのは 発音がネイティブに近いということである。

話す内容は中学レベルでも・・・。



そもそも母国語がしっかりしていれば、何歳で学んでも外国語の習得はできる。

決して 英語だけを猛烈に勉強する必要はない。英語はほかの科目より優先されるべきではない。

英会話教室に通うお金をためて 必要なら 海外旅行時などに通訳をつければいい。

英語は海外の言語のひとつにすぎない。

もし、英語ができないなら自分のできることで勝負すればいい。

楽天、ユニクロ、
社内公用語を英語にした。

食堂メニューも英語。

しかし、こんなことに時間をかけるのは無駄だとわからないのか。

資料も英語、日本人同士がつたない英語で話し合っているらしい。

日本の国内において・・・。

無駄。

楽天の中で、
「重要なことなので、日本語で失礼します」 という言葉が流行ってきた

とツイッターでのつぶやきがあった。

最高のギャグではないか。

一般社員まで英語を使わせることに何の意味があるのか
まるで拷問。

実際、英語よりも中国語をはなせたほうがいいのではないか。

話す人口が多いのが中国語である。

グローバル化を求めるなら中国語。

 とにかく英語が唯一の言語ではない。ことは覚えておくべきである。

英語さえ覚えておけば、世界のどこでも通用すると思ったら浅はか。

多様な文化や価値観を理解するのが本当の意味でのグルーバル化。

日本にいながら、外国人になりきるのがおかしい。

腰パン 黒人の真似。

形だけ外国人の真似をするのはおかしい。

英語を勉強するために仕事をするわけではないから、無意味なことに費やすよりも有意義な仕事ができる企業を探したほうがいい。

自分の生き方を会社に決めさせてはいけない。
心まで奴隷になっているのと同じである。

もし言語を学びたいならマイナーな言語を覚えるほうがまだ付加価値がある。

大勢が学ぶ言語は特技にはならないが、マイナーな言語なら通訳など

誰もやらないからことにこそ、成功の芽が隠れている。


英語ができる人は 優秀ではない。

英語はコミュニケーションの道具。

英語圏の人は英語を話す、ただそれだけ。

道具の使い方よりも話の中身こそが大事。

日本人は英語を特別視しすぎている。

気楽に構えていればいい
そのためのコミュニケーションである。


ホンダの伊藤社長の言葉

日本国内で全部英語なんて馬鹿な話はない

英語ができても仕事ができるわけではない。

最もである。


TOEICの妄信。

人間力と英語力も関係ない。


仕事で英語を使う機会が全くないのに、採用に英語を重視する企業は

奴隷度の高い人を採用するためではないか。



英語を勉強するよりも、もっと大人の学問をしよう。


何歳になっても遅すぎるということはない。

学問は出世や就職の道具ではない。
自分の好きなことや得意なことを追求するための学びである。


セミナーに通えばいいのではない。

それは、通って学ばないと と洗脳されている。


家でいろいろな書物を読むことこそが すばらしい学び。

学びは教師に問うものではなく内なる自分に問いかけるものである。

人は学び問うことで人であり続けられる。

その学びは無数の書物や芸術作品、音楽や芝居などから得られる。

学ぶテーマは無限にあり、まだ出会っていない学問はあちこちに眠っている。
コミュニケーションは思想や哲学、知識があってこそ、うまくなるもの。


英語は最後でいい。その前に山ほど学ぶことがある

 (③に続く)

とりあえず、今日はここまでにしておきます。

この本に書かれていたことは、私が常日頃、夫に語っている英語に関する疑問であったので、私と同じように考えている方々も実は多くいるのだと嬉しく感じました。

夫の会社でも、夫自身は全く英語を使う場面がないにもかかわらず、TOEICを強要されて、高得点を取らないと、昇給していけないとか・・・。
その英語の試験に会社のお金も かなりつかわれているとか。


ただ、夫はあまりそのようなことに気にせず、淡々としており、英語は全然勉強してませんけどね。笑

私としては、夫の態度はそれはそれで素晴らしいと思いますね 笑

いや、夫の場合は会社への 英語への反抗とかじゃなくて、単にやる気がないだけだと思いますが、それでも会社の奴隷になるよりはよっぽどいいというか。笑


どう考えても、英語の勉強を全社員にやらせる意味も不明だし、

もっと他にやる仕事あるだろう?って思いますけどね。

あまりに無駄じゃないかと思うんですけど・・・。英語を仕事で使うならいいんですけど。


このようなことが、今 社会全体で行われているのでしょうね。

そういえば、教師をしていた時にも こんな無駄なことたくさんありましたよ。

英語に限った話ではないんですね。笑


もちろん、この本にも書いてありましたが、一割の人は、ぺらぺらレベルで英語を習得する必要があるんだと思います。

でもやっぱり、英語よりも何よりも大切なものはほかにいっぱいありますしね~ 


アメリカ、カナダ、オーストリア人の英語を母国語とする子たちと一緒に旅をしましたが、はっきり言って、
TOEICにでてくるような難解な会話、英語を母国語にする人たちの間ですら使用していませんでした。笑

あのテストはビジネス用に作られたテストのようなので、当然なのかもしれないですけど・・・。

う~ん・・・やっぱりそうなると、その勉強、無駄ですよね・・・


それよりも書物を読め、素晴らしい芸術に触れろ、体験しろ という考えは、非常に私の考えと似ています。




人は学び問うことで人であり続けられる。


この言葉もいいですね。

私もいつまでもいつまでもいろいろなことを学び続けていきたいと日々思っています。




ということで、いったん終わります。

次 3へ続く。



おまけ 


↓ 最近、とっても好きな曲です。

早朝に、隣の部屋で 娘が録画してあったクレヨンしんちゃんを見ていたらしく、

その際に、この曲が流れてきたんですよね。


そしたら、あまりにいい曲で 私の魂が反応したのか、笑

眠っていたはずなのに、 パッと 目が覚めました。
(我が家では毎日私が一番起床が遅いのですが・・・)


ケツメイシの曲です。


ケツメイシといえば、ケツメイシのライブが大学の時、近くの医大の体育館であり、観に行きました。
そして、あまりに皆が盛り上がりすぎて、飛び跳ねたりしすぎたために、その体育館の床が抜けてしまった ということがありました。笑


ケツメイシの友よ~この先もずっと・・・~


素晴らしい友人が一人でもいる。それってすごいことですよね。
これまでの、そして、これからの、色々な出会いに感謝感謝です。



今日は、またまた非常に感銘を受けた本をまとめておきます。

その名も

英語の毒害 永井忠孝


最近、幼児期からの英語ブームで、とにかく英語英語と英語ブームですが、私は以前からそのブームを非常に冷めた目で見ていましたし、なんとなく疑問を感じていたんですね。



この本には私のモヤモヤしていた想いが代弁されていました。

ぜひ一読してみてください!

この世を見る目がものすごく広がると思います。

ごく普通の視点からの英語論ではないので。

(簡単にまとめておきます)

まとめ開始


ここ20年ほど日本では英語に関して大きな変革が次々と起きている。

小学校でも英語が必修化され、英語教育がコミュニケーション中心になった。

高校の英語の授業を英語で行うことになった。

英語公用語論が提案された。


英語を社内の公用語にする企業が出てきた。(楽天、ユニクロ)

そして、日本では

・アメリカ・イギリス英語を学ぶべき 

・これからはグローバル化がすすむから英語ができないと生きていけない。

・従来の読み書き中心の英語教育は失敗。これからは会話中心。

・なるべく小さい頃から英語を学ぶべき。

・ネイティブに英語を習うべき。 という考え方が多くの方の中で広まっている。



しかし、英語には、

外国人とやりとりする道具という側面

植民地支配の道具という側面の二つの面があるということ。


を忘れてはいけない。


そして二つ目のことに関しては、みな、無自覚であるということ。

歴史上では、

インドやマレーシア、フィリピンにおいて、
英語が植民地支配の道具に使われたことは誰でも知っている。



でもそれは過去のこと。と多くの人は言うかもしれない。


しかし、実は今も英語の役割はたいして変わらないのではないだろうか。

過去には、他国の支配の手段が 軍事力、経済力というハードなものだったのが、

現在は 文化や英語というソフトなものへと移行してきただけではないのか。

それはつまり
内面からの支配ではないだろうか。



作家の小田実が「状況から」の本でこのように書いている。



日本の学校で行われている英語教育は植民地教育ではないか。


植民地教育の特徴の第一は、教える側が教えられる側に対して圧倒的優位に立つことである。


インドではイギリスによる、「英語侵略」「英語支配」の問題がある。

ガンジーは自国の言葉を守ることの大切さを説いた。


今のインドは十数年前に比べたらよくなったと私は思う。

なぜなら、インド人が話す英語が下手になったからである。

インド人の友人はふきだしながら大きくうなずいた。


英語教育には
自発的植民地化という側面があることを決して忘れてはいけない。


英語には利便性とともに危険性もある。


私の研究はエスキモー語である。

エスキモーは昔ながらの生活を営む素朴で善良そうな人々というイメージを多くの人は持つであろう。


しかし、実際に行って驚いた。

若者はアル中毒だらけ。

ほとんどの家庭は低所得者用配給権で生活している。

非常に悲惨であった。


こうなった背景には、彼らが彼らの文化を失ったことが大きい。

彼らの言語と文化を失ったのだ。

エスキモーはもともと独自の言語をもっていた。

しかし今は、彼らはほとんど英語しか話さない。

村で英語を話すようになるにつれて、英語の文化が入ってきた。

英語の文化が入ってくると、白人の価値観も入ってくる。

そして、英語とともに白人も入ってきた。

今では、村長や学校の先生、経営者などみな白人である。


このようになってしまった原因を追究していくと、

彼らが英語を話すようになったことに行き着くのである。

エスキモーの親たちは英語が話せるようになることで経済的な成功を得ることを期待しただろう。

しかし、その期待は実現しなかった。


英語ができるようになった結果、

村は白人と白人文化に支配されるようになってしまった。
このようなことは世界中で起きている。



今の日本において、英語ができないといけない という強迫観念を抱いている若者があまりにも多い。


日本の社会全体が人々に英語に対する脅迫観念も抱かせようとしている。


これは数十年前のエスキモーと同じように思える。


英語ができないといけない、英語ができれば、いいことがある。


みんなそう思っていた。

でもその先にあったのは、他国に支配される社会であった。



そうなると今の日本の行く末も、他国に支配される社会ではないか。

私がこのように言うと、

日本人は日本語を捨てていないからエスキモーとは違う と多くの人は反論するだるう。


しかし、そこに大きな違いはない。


自分たちの言語はあったとしても、

多くの人が英語ができるようになった社会には言語の障壁がなくなる。

インドやフィリピンをよくみてみるといい。

給料の高い、いい仕事は全て白人がやっている。


日本人は英語ができるようになった自分たちを、アメリカに重ねてみている人が多いが、

本当はアジアの英語圏と重ねてみるべき。

今の日本の英語教育の行き先にあるのは、日本のフィリピン化ではないか。




英語は今後ますます重要ではなくなる。

英語力が必要な業種もあるが、それはごく一部。

仕事で英語を使う人はごく一握りであって、国民全体ができるようにならなければならない状況ではない。

この先、英語が国際語であり続けるかも疑問である。


そもそもなぜ英語が国際語なのか?

英語が優れた言語だからでは決してない。

英語圏のイギリス、アメリカが世界の制覇を握ったからに過ぎない。

つまり、今アメリカが世界の制覇を握っているから国際語として地位にいるだけである。



しかもアメリカでも 4割がスペイン語を話す。
すでにアメリカ国内でも英語の地位が脅かされている。


そのうえ、アメリカの覇権もいつか終わる。

2050年の世界一の大国は中国であるという予想もある。

たとえ、英語が世界の国際語であり続けるとしても、英語学習の必要性は薄れていく。

機械翻訳がかなり発達してきている。そしてますます向上していく。

機械翻訳によって英語を学ぶ必要のなくなった世界はより公平なものになるだろう。


今は英語を母国語にする人たちのほうが圧倒的に交渉に有利である。
母語話者は自分のペースで話を進めることができるからである。


しかし、今後、機械翻訳を使うようになれば、

英語の勉強時間にあててきた時間や労力を他の学習に向けることができる。


英語を学習しなければならないのは当たり前、

そんな状況がいつまでも変わらない 

そう思い込むことで大いに損をしている。




そして、もう一つ、日本人にはバイリンガルは優れている、かっこいい という思い込みがある。


しかし、バイリンガルにしようと思うのであれば、その言語に一日中触れさせ続ける ということを何年もしなければ無理である。

しかも、そもそも日本での英語の必要性は高くないのだから、全員が英語をできる必要はない。


日本人であっても、日本語で素晴らしい論文を書ける人もいるが、書くことはおろか、読んでもきちん理解できない人も多い。
母国語である日本語であってでも、である。

このように学習言語能力には個人差が大きい。

今の日本において、バイリンガルといっても、簡単な日常英語や会話は話せても、知的な文章を読んだり、書いたり、知的な会話ができる人はほとんどいないのが現状である。

帰国子女の多くは、会話程度の英語力しかもっていないことが多い。

論理的な大人な議論はできない。


つまり、それは、日本でいうと、小学校低中学年レベルの日本語しか話せないということである。


特にインターナショナルスクールにおいては、日本語、英語もどちらも低レベルという状況になっている子供も多い。


これではどちらの言語圏においても知的な職業にはつけないという結果になってしまう。

それならば、英語は話せなくても、日本語の論文をしっかりかけるほうがいいであろう。



シンガポールでは 英語とシンガポール語を学校において、同じ割合で接するように教えている。

しかし、その結果 どちらの言語の読み書きの能力も、最低水準に達しないものが多いという報告がある。





また、日本人の中で多い意見として、英語は、ネイティブにならいたい というのがある。


しかし、日本英語は世界で通じるのである。

こんな実験がある。

ドイツ英語、フィリピン英語、インド英語、日本英語など、様々な国の外国の人が、どれぐらいその人の話す英語を聞き取れるのか というテストをして比較した結果 (相手にどれぐらい伝わるかのテスト)


香港人が話す英語を 聞き取りができた人は  44パーセントで 最低の結果であった。
つまり、香港人の英語は聞き取りにくいということである。

それに引き換え、

日本人の話す英語は 75%の人が 聞き取りできたのである。

そのうえ、驚くべきことに、アメリカ人の話す英語は55パーセントしか聞き取れないという結果であった。


つまりこの結果からわかることは、

実は日本人英語のほうが アメリカ人英語よりも世界では通じやすい。ということである。


日本人の話す英語(日本語っぽいアクセントのある)は、

間違った恥ずかしい英語ではなく、実に力強い英語なのである。


そして、今後、ますます中心はアジア英語になっていく。

多くのアジアの国において、

学ぶべきは アメリカ英語ではなく インド英語、フィリピン英語だと回答している。

日本だけ、アメリカ英語を重視しているのである。

日本では、英語の装飾的価値を重視しすぎている。

かっこいいからとか・・・。


しかし、
考えてほしい。

日本でアメリカ・イギリス英語を重要視させて、得しているのはだれかと。

アメリカとイギリスである。

アメリカ英語を国際語だと思い、英米英語を学んでくれれば、彼らは莫大な利益が得られる。
そのために 彼らは英語を普及させ、国際語にする努力をしてきたのである。

英語の本を売れる。

英語教師を送り出すことができる。

インターナショナルスクールで利益。


日本において、英語が公用語になるということは、重要な文書などが英語で公開されてしまう恐れもある。
それは英米からしたら、
日本の秘密文書が英語で書かれるようになったならば、翻訳の手間なしに、簡単に読むことができるということである。非常に好都合。

様々なテスト費用も得られる。

母語話者としての優位性もある。


つまり、限りない恩恵がイギリス、アメリカにあるのである。



そして、さらに、日本において、英語の学習に比率を大きくすると、他の教科への比重が低くなり、他の教科の学力の低下につながる。

そして、

映画、 本、などすでに今もそうなっているが、

日本人がアメリカ・イギリス側からの視点でニュースをみるようになる。

全てが目線がそちらよりになる。

アメリカ目線の日本人。


戦略としての英語普及。

支配者は重々承知しているのである。

イギリスのチャーチルはかつて言っている。



ベーシックなイギリス英語を普及させることは

イギリスにとって広大な領土を拡大するよりもはるかに永続的で実り多い利益になる。




つまり、この言葉の意味することは

英語によって、

日本とアメリカは 常に 支配者と被支配者の関係になるのである。

英語の普及に努めてきたGHQ。

日本人への英語へのあこがれ。

正力松太郎のCIAと接触。

これらの意味するところは何か、よく考えてほしい。


アメリカが日本に求めている理想は

・日常会話程度の英語力だけで十分
・英語ができすぎても困る
・英語を使って高度な内容を理解したり、表現したりは困るのでそれができないレベル。
  (そういうことはアメリカ人がやるから・・・)


つまり、

日本人が アメリカ人の手とり足取りとなって働くことができる程度の英語力を身に着けること。

これがアメリカの求める理想の日本人の英語力なのである。


そのために、日本を守っている日本語の障壁を低くすること。

そして、求めるべきは 会話程度の英語力。

昨今、読み中心ではなく、会話重視の、 アメリカの求める英語に日本の教育が変えられてきている。

まさにアメリカの都合の良いように推進してきているのである。

これは妄言ではない。アジアの他国をみてみるとよくわかる。


日本において言葉の壁がなくなったら 日本で外国人社長が増えるであろう。

富裕層は外国人、日本人は貧困層ばかりということになりかねない。
エスキモーやフィリピンのように・・・。


そのために、これからは英語だけでなく多言語を勉強すべきである。

インドガンジーはかつて言った。

「何百人もの人に英語の知識を与えることは
その人達を奴隷にすることである。インドを奴隷化したのは、我々英語を使うインド人だ。」


そのインドでは、かつての失敗を反省し、現在、英語重視がみなおされはじめてきている。


日本は これから100年間英語偏重を進めて、失敗しないときがつかないのか・・・。

(まとめ終わり)

ということで、英語を迎合する世の中において、このような視点からの意見は貴重ではないでしょうか。

この本を紹介したということで、私自身も英語が嫌いかというと、そうでは全くないですけどね。

小学生のころからアメリカが大好きで、ずっとアメリカの男の子に生まれたかったと思いながら成長していますし、(笑)
結局、大学でも、英語を専攻し、英語の教員免許も持っていますし、むしろ英語好きだと思います。笑

それが過去生の影響なのか、単なる洗脳なのかはわかりませんが。

ただ、なんでもかんでも、英語英語って優先されるのはどうかなと思います。

日本人は、大変難しい日本語を操っているわけで、英語に対する劣等感なんか持つ必要ないんじゃないですかね。

やはり、基本は国語。そのうえで、中学生、早くても小学生高学年で英語やり始めればいいんじゃない?とは個人的に思いますけどね~。

それよりもまず、素晴らしい、日本語の文化を大切にしていきたいですね。

ということで、 See you next time!!Bye BYE   !!

P.s 
ブログの題名、改名しました~!!

ナインジャーだけに、七色から 9色へと変更を検討中です。笑

 こんにちは。怒涛の更新ラッシュは終わりましたが、今後もちょこちょこ更新していきます。

今日は、 シュタイナーや人らーの調べ学習(?)などを通して気が付いたこと、過去にもすでに気が付いていることも含めてここで簡単にいったんまとめておきます。

ただ、これらは現時点でのいろいろな私の経験と本などからの情報をもとにしたものなので、今後どんどん変わっていくことが予想されます。とりあえず、現段階における情報。





まず、霊能力について。

これは、能力自体に、悪いもよいもなく、完全に中立なものであって、それを利用する人次第で、悪用することもできるし、善用することもできる。

また、人格が優れているから霊能力も高い、または、霊能力が高い =人格も優れている とはならない。

霊能力が突然芽生えたりする際に、背後に、宇宙人的な存在がいる可能性もある。そして、その存在が良いものなのか、悪いものなのかの判断は難しい。

操ることが容易そうな霊力、感受性のある人間に力を与えて、最初だけ光の存在のようにふるまうことも・・・
そして、長い時間をかけて、その力によって傲慢になってしまったその人間を悪い方向へ導く・・・。 などやり方は非常に巧妙。

しかし、光なのか闇なのかは、その後のその人の行動をみてみれば簡単にわかる。
そして、そもそもが光も闇も表裏一体であり、誰もが共に持ち合わせているもの。


人類を支配しようとする存在の場合、人間への伝言の多くが、指示形式であり、直接的、命令的、具体的、わかりやすい、断言的などの特徴がある。 そして、しばしば、人々に恐怖や嫌悪を抱かせる内容。


光の存在は人間の意志や自己選択を尊重するため、抽象的で、やんわりと直観的に伝えることが多い。



インスピレーションとして多くの人に天の光の存在がメッセージを送っている。
ただ、現在の人は、そのメッセージを受け取る能力が鈍く曇ってしまったために受け取れない人も多い。


                (簡単な まとめ終わり)


インスピレーション。でも、きっと、多くの人々が、自分でも気が付かないうちに、

自分の意志で行動していると思っていても、光からのインスピレーションを受け取って行動したり、考えたり、閃いたりしているのでしょうね。

私自身も振り返ってみれば人生の岐路となっていた場面ではかならず、ふとひらめいてるんですよね~。
自分では、自分で思いついた、と思ってばかりいたのですが、やはり、導かれていたんですね~。


そして、なぜか、それらの重要な岐路となった、自分がふと思いついた、ひらめきの瞬間の場面をすべてはっきりと覚えているんです。別に印象に残るような、感情を揺さぶられるようなそんな場面でもなかったにも関わらず。

誰もいない高校の廊下から不要となった大学の願書の一つを取り出して、持ち帰った瞬間。

ある大学に入ったときになぜか、あっ、私はここ大学には来ないと感じた瞬間。

横浜の本屋で光り輝くように見えた本をなんとなく購入した瞬間。

京都の資料館で、ぼんやりと光り輝く名前をみた瞬間。

ある方との出会いの瞬間。(親友や恩師、等々)

娘の泣き声を聴いた瞬間。

ある幼稚園に入ってすぐに、ここに娘を入れようと思った瞬間。などなど、他多数



本当にすぐにいろいろと忘却してしまう私が、今振り返ってみれば、あれは重要ポイントだった、という何気ない場面をはっきりと思い出せるなんて奇跡です。


きっと、天からくる重大なひらめきって、自分で頭で考えて思いついたひらめきとはめっきり種類が違うんだと思います。
脳ではなくて、魂に届いてきているとか、そんな感じ。

そして、面白いことに、というか残念なことに、これまでに様々なスピリチュアルなものを受講してきたり、そのような方々に出会ってきたりしましたが、それらの出会いの瞬間や申し込みの瞬間など全然覚えていません。涙

もちろん、怖かったとか、あんな感じだったな~とか感情が揺れた場面なら、

(江原さんのカウントダウンコンサートで眠くて眠くて仕方がなかったとか。てか夜中でしたし仕方がない。 笑)

ぼんやりとした記憶は思い出せるものもあるんですが・・・イメージとして、瞬間的にはその場面を思い出せないんですよね。



もちろん、それらの方々との出会いは非常に私にとって重要なもので、必要な出会いであった、必要な出来事であったことは間違いないのですが、上記にあげたような私の人生の大きな分岐点 というわけではないですからね。




そんなことを思っていたら、今日、たまたま読んだシュタイナーの本にこんなことが。

シュタイナー 生命の教育 高橋巌 より

真剣に宇宙生命との出会いを求めている人は例外なしに記憶力が悪くなるとシュタイナーは言っている。

物覚えが悪くなったり、名前がすぐにでてこなかったりする。

エーテル体(人間の肉体の周りを取り巻く層のようなもの?)
がいくら元気でも、自分の中の記憶が頑張っていると、エーテル体がイメージを受容することができないので、

イメージを受容するために、記憶力が抑えられて、物覚えが悪くなったりする。

日常の記憶力をシュタイナーは「機械的な記憶」と呼び、

エーテル体に刻印づけることによる記憶を生命的な記憶と言っている。


エーテル体に刻印づけられた記憶は変化して宇宙エーテルの中に取り込まれ、そこから再び、未来から人間に働きかけてくる。  (終わり)



もしかしたら、私が奇跡的に覚えている上記の思い出の数々の場面は、シュタイナーでいう、

エーテル体に刻印された記憶だったのかもしれないですね。

何か種類が違うように感じた自分の感覚もあながちハズレではなかったのではないでしょうか。



それにしても、

私の記憶力、ほんとにある部分に関して全く機能しないんですよ。笑

大丈夫か?っていうくらい。(テスト勉強系はゴロで関連づければいけるんですが・・・。)


しかし、先日、私の知り合いの ある意味、シュタイナー系(?)の方も、

自分はあることを記憶する力がすっぽり抜け落ちている。 (話を聞けば、私より上をいく感じで 笑)
困ったときには、ゴロでなんとか記憶している・・・とおっしゃられていて、

自分と同類だと、一安心していたところだったんです。

そしたら、なんと、今日、シュタイナーさんが、言ってくれましたよ。

真剣に宇宙生命との出会いを求めている人は

例外なく記憶力がわるくなると。

例外なくですよ。


いや~自分では、まったく、無意識領域でしたので、気が付いてなかったですけどね~。

エーテル体がイメージを受容しやすいように、私自身の記憶は弱まっていたのですね。

うん、うん納得納得。 (異論反論、聞きません。笑)

シュタイナーさんの言葉は非常に難しくて、今回もしっかり理解でいているとはいいがたいですが、

とにかく、

記憶力が弱まっているのは、老化なんかではない!!ということですね。



皆さんも、最近、なんか物忘れが激しくなったな~と心配されていませんか?

安心してください。

それは、決して脳の老化なんかではないんです。

それはつまり、自分の内面が、真剣に宇宙生命との出会いを求めている証拠。

宇宙からみたら、ものすごい、大きな、偉大な意味があるのです。

いたし方ありませんね。






と、いうことで、

どんな物事も、なるようになる。


これからも、宇宙からの素敵なインスピレーションを受け取って楽しく生きていきたいなと思います。








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