今日は、またまた非常に感銘を受けた本をまとめておきます。

その名も

英語の毒害 永井忠孝


最近、幼児期からの英語ブームで、とにかく英語英語と英語ブームですが、私は以前からそのブームを非常に冷めた目で見ていましたし、なんとなく疑問を感じていたんですね。



この本には私のモヤモヤしていた想いが代弁されていました。

ぜひ一読してみてください!

この世を見る目がものすごく広がると思います。

ごく普通の視点からの英語論ではないので。

(簡単にまとめておきます)

まとめ開始


ここ20年ほど日本では英語に関して大きな変革が次々と起きている。

小学校でも英語が必修化され、英語教育がコミュニケーション中心になった。

高校の英語の授業を英語で行うことになった。

英語公用語論が提案された。


英語を社内の公用語にする企業が出てきた。(楽天、ユニクロ)

そして、日本では

・アメリカ・イギリス英語を学ぶべき 

・これからはグローバル化がすすむから英語ができないと生きていけない。

・従来の読み書き中心の英語教育は失敗。これからは会話中心。

・なるべく小さい頃から英語を学ぶべき。

・ネイティブに英語を習うべき。 という考え方が多くの方の中で広まっている。



しかし、英語には、

外国人とやりとりする道具という側面

植民地支配の道具という側面の二つの面があるということ。


を忘れてはいけない。


そして二つ目のことに関しては、みな、無自覚であるということ。

歴史上では、

インドやマレーシア、フィリピンにおいて、
英語が植民地支配の道具に使われたことは誰でも知っている。



でもそれは過去のこと。と多くの人は言うかもしれない。


しかし、実は今も英語の役割はたいして変わらないのではないだろうか。

過去には、他国の支配の手段が 軍事力、経済力というハードなものだったのが、

現在は 文化や英語というソフトなものへと移行してきただけではないのか。

それはつまり
内面からの支配ではないだろうか。



作家の小田実が「状況から」の本でこのように書いている。



日本の学校で行われている英語教育は植民地教育ではないか。


植民地教育の特徴の第一は、教える側が教えられる側に対して圧倒的優位に立つことである。


インドではイギリスによる、「英語侵略」「英語支配」の問題がある。

ガンジーは自国の言葉を守ることの大切さを説いた。


今のインドは十数年前に比べたらよくなったと私は思う。

なぜなら、インド人が話す英語が下手になったからである。

インド人の友人はふきだしながら大きくうなずいた。


英語教育には
自発的植民地化という側面があることを決して忘れてはいけない。


英語には利便性とともに危険性もある。


私の研究はエスキモー語である。

エスキモーは昔ながらの生活を営む素朴で善良そうな人々というイメージを多くの人は持つであろう。


しかし、実際に行って驚いた。

若者はアル中毒だらけ。

ほとんどの家庭は低所得者用配給権で生活している。

非常に悲惨であった。


こうなった背景には、彼らが彼らの文化を失ったことが大きい。

彼らの言語と文化を失ったのだ。

エスキモーはもともと独自の言語をもっていた。

しかし今は、彼らはほとんど英語しか話さない。

村で英語を話すようになるにつれて、英語の文化が入ってきた。

英語の文化が入ってくると、白人の価値観も入ってくる。

そして、英語とともに白人も入ってきた。

今では、村長や学校の先生、経営者などみな白人である。


このようになってしまった原因を追究していくと、

彼らが英語を話すようになったことに行き着くのである。

エスキモーの親たちは英語が話せるようになることで経済的な成功を得ることを期待しただろう。

しかし、その期待は実現しなかった。


英語ができるようになった結果、

村は白人と白人文化に支配されるようになってしまった。
このようなことは世界中で起きている。



今の日本において、英語ができないといけない という強迫観念を抱いている若者があまりにも多い。


日本の社会全体が人々に英語に対する脅迫観念も抱かせようとしている。


これは数十年前のエスキモーと同じように思える。


英語ができないといけない、英語ができれば、いいことがある。


みんなそう思っていた。

でもその先にあったのは、他国に支配される社会であった。



そうなると今の日本の行く末も、他国に支配される社会ではないか。

私がこのように言うと、

日本人は日本語を捨てていないからエスキモーとは違う と多くの人は反論するだるう。


しかし、そこに大きな違いはない。


自分たちの言語はあったとしても、

多くの人が英語ができるようになった社会には言語の障壁がなくなる。

インドやフィリピンをよくみてみるといい。

給料の高い、いい仕事は全て白人がやっている。


日本人は英語ができるようになった自分たちを、アメリカに重ねてみている人が多いが、

本当はアジアの英語圏と重ねてみるべき。

今の日本の英語教育の行き先にあるのは、日本のフィリピン化ではないか。




英語は今後ますます重要ではなくなる。

英語力が必要な業種もあるが、それはごく一部。

仕事で英語を使う人はごく一握りであって、国民全体ができるようにならなければならない状況ではない。

この先、英語が国際語であり続けるかも疑問である。


そもそもなぜ英語が国際語なのか?

英語が優れた言語だからでは決してない。

英語圏のイギリス、アメリカが世界の制覇を握ったからに過ぎない。

つまり、今アメリカが世界の制覇を握っているから国際語として地位にいるだけである。



しかもアメリカでも 4割がスペイン語を話す。
すでにアメリカ国内でも英語の地位が脅かされている。


そのうえ、アメリカの覇権もいつか終わる。

2050年の世界一の大国は中国であるという予想もある。

たとえ、英語が世界の国際語であり続けるとしても、英語学習の必要性は薄れていく。

機械翻訳がかなり発達してきている。そしてますます向上していく。

機械翻訳によって英語を学ぶ必要のなくなった世界はより公平なものになるだろう。


今は英語を母国語にする人たちのほうが圧倒的に交渉に有利である。
母語話者は自分のペースで話を進めることができるからである。


しかし、今後、機械翻訳を使うようになれば、

英語の勉強時間にあててきた時間や労力を他の学習に向けることができる。


英語を学習しなければならないのは当たり前、

そんな状況がいつまでも変わらない 

そう思い込むことで大いに損をしている。




そして、もう一つ、日本人にはバイリンガルは優れている、かっこいい という思い込みがある。


しかし、バイリンガルにしようと思うのであれば、その言語に一日中触れさせ続ける ということを何年もしなければ無理である。

しかも、そもそも日本での英語の必要性は高くないのだから、全員が英語をできる必要はない。


日本人であっても、日本語で素晴らしい論文を書ける人もいるが、書くことはおろか、読んでもきちん理解できない人も多い。
母国語である日本語であってでも、である。

このように学習言語能力には個人差が大きい。

今の日本において、バイリンガルといっても、簡単な日常英語や会話は話せても、知的な文章を読んだり、書いたり、知的な会話ができる人はほとんどいないのが現状である。

帰国子女の多くは、会話程度の英語力しかもっていないことが多い。

論理的な大人な議論はできない。


つまり、それは、日本でいうと、小学校低中学年レベルの日本語しか話せないということである。


特にインターナショナルスクールにおいては、日本語、英語もどちらも低レベルという状況になっている子供も多い。


これではどちらの言語圏においても知的な職業にはつけないという結果になってしまう。

それならば、英語は話せなくても、日本語の論文をしっかりかけるほうがいいであろう。



シンガポールでは 英語とシンガポール語を学校において、同じ割合で接するように教えている。

しかし、その結果 どちらの言語の読み書きの能力も、最低水準に達しないものが多いという報告がある。





また、日本人の中で多い意見として、英語は、ネイティブにならいたい というのがある。


しかし、日本英語は世界で通じるのである。

こんな実験がある。

ドイツ英語、フィリピン英語、インド英語、日本英語など、様々な国の外国の人が、どれぐらいその人の話す英語を聞き取れるのか というテストをして比較した結果 (相手にどれぐらい伝わるかのテスト)


香港人が話す英語を 聞き取りができた人は  44パーセントで 最低の結果であった。
つまり、香港人の英語は聞き取りにくいということである。

それに引き換え、

日本人の話す英語は 75%の人が 聞き取りできたのである。

そのうえ、驚くべきことに、アメリカ人の話す英語は55パーセントしか聞き取れないという結果であった。


つまりこの結果からわかることは、

実は日本人英語のほうが アメリカ人英語よりも世界では通じやすい。ということである。


日本人の話す英語(日本語っぽいアクセントのある)は、

間違った恥ずかしい英語ではなく、実に力強い英語なのである。


そして、今後、ますます中心はアジア英語になっていく。

多くのアジアの国において、

学ぶべきは アメリカ英語ではなく インド英語、フィリピン英語だと回答している。

日本だけ、アメリカ英語を重視しているのである。

日本では、英語の装飾的価値を重視しすぎている。

かっこいいからとか・・・。


しかし、
考えてほしい。

日本でアメリカ・イギリス英語を重要視させて、得しているのはだれかと。

アメリカとイギリスである。

アメリカ英語を国際語だと思い、英米英語を学んでくれれば、彼らは莫大な利益が得られる。
そのために 彼らは英語を普及させ、国際語にする努力をしてきたのである。

英語の本を売れる。

英語教師を送り出すことができる。

インターナショナルスクールで利益。


日本において、英語が公用語になるということは、重要な文書などが英語で公開されてしまう恐れもある。
それは英米からしたら、
日本の秘密文書が英語で書かれるようになったならば、翻訳の手間なしに、簡単に読むことができるということである。非常に好都合。

様々なテスト費用も得られる。

母語話者としての優位性もある。


つまり、限りない恩恵がイギリス、アメリカにあるのである。



そして、さらに、日本において、英語の学習に比率を大きくすると、他の教科への比重が低くなり、他の教科の学力の低下につながる。

そして、

映画、 本、などすでに今もそうなっているが、

日本人がアメリカ・イギリス側からの視点でニュースをみるようになる。

全てが目線がそちらよりになる。

アメリカ目線の日本人。


戦略としての英語普及。

支配者は重々承知しているのである。

イギリスのチャーチルはかつて言っている。



ベーシックなイギリス英語を普及させることは

イギリスにとって広大な領土を拡大するよりもはるかに永続的で実り多い利益になる。




つまり、この言葉の意味することは

英語によって、

日本とアメリカは 常に 支配者と被支配者の関係になるのである。

英語の普及に努めてきたGHQ。

日本人への英語へのあこがれ。

正力松太郎のCIAと接触。

これらの意味するところは何か、よく考えてほしい。


アメリカが日本に求めている理想は

・日常会話程度の英語力だけで十分
・英語ができすぎても困る
・英語を使って高度な内容を理解したり、表現したりは困るのでそれができないレベル。
  (そういうことはアメリカ人がやるから・・・)


つまり、

日本人が アメリカ人の手とり足取りとなって働くことができる程度の英語力を身に着けること。

これがアメリカの求める理想の日本人の英語力なのである。


そのために、日本を守っている日本語の障壁を低くすること。

そして、求めるべきは 会話程度の英語力。

昨今、読み中心ではなく、会話重視の、 アメリカの求める英語に日本の教育が変えられてきている。

まさにアメリカの都合の良いように推進してきているのである。

これは妄言ではない。アジアの他国をみてみるとよくわかる。


日本において言葉の壁がなくなったら 日本で外国人社長が増えるであろう。

富裕層は外国人、日本人は貧困層ばかりということになりかねない。
エスキモーやフィリピンのように・・・。


そのために、これからは英語だけでなく多言語を勉強すべきである。

インドガンジーはかつて言った。

「何百人もの人に英語の知識を与えることは
その人達を奴隷にすることである。インドを奴隷化したのは、我々英語を使うインド人だ。」


そのインドでは、かつての失敗を反省し、現在、英語重視がみなおされはじめてきている。


日本は これから100年間英語偏重を進めて、失敗しないときがつかないのか・・・。

(まとめ終わり)

ということで、英語を迎合する世の中において、このような視点からの意見は貴重ではないでしょうか。

この本を紹介したということで、私自身も英語が嫌いかというと、そうでは全くないですけどね。

小学生のころからアメリカが大好きで、ずっとアメリカの男の子に生まれたかったと思いながら成長していますし、(笑)
結局、大学でも、英語を専攻し、英語の教員免許も持っていますし、むしろ英語好きだと思います。笑

それが過去生の影響なのか、単なる洗脳なのかはわかりませんが。

ただ、なんでもかんでも、英語英語って優先されるのはどうかなと思います。

日本人は、大変難しい日本語を操っているわけで、英語に対する劣等感なんか持つ必要ないんじゃないですかね。

やはり、基本は国語。そのうえで、中学生、早くても小学生高学年で英語やり始めればいいんじゃない?とは個人的に思いますけどね~。

それよりもまず、素晴らしい、日本語の文化を大切にしていきたいですね。

ということで、 See you next time!!Bye BYE   !!

P.s 
ブログの題名、改名しました~!!

ナインジャーだけに、七色から 9色へと変更を検討中です。笑